誠実な生活

実家の隣に葬儀屋がある

日記(2/9)

朝の九時に, 役所の開庁と同時にマイナンバーの受け取りに行きました. 

 

これまで, 運転免許証を持っていないがために数多くの不便を強いられてきましたが, これでようやく顔写真付きの身分証明証を獲得しました. 

 

私の地元は, 著しい車社会です. 私の実家の最寄り駅には, 一時間に二本しか列車が来ません. それを特に不便と思わずに育ったことが, それを物語っています. 

 

大型の書店に行くには, 実家から自転車を四十分近く漕がなければなりません. 当時の私は, 自転車で本当にどこまでも行きました. 車を運転できない以上, そうするほかありません. 

 

あの土地では, 基本的に大人が自転車に乗ることは社会的に許されません. 自動車を所有していない大人は異端であって, 自動車を持たないやむを得ない理由を提示することができなければ, 彼らはあの土地にいる全ての時間を費やして, 自身がいかに無害な存在であるかということを, 周囲に示し続けなければならないのです. 

 

そうした社会が維持されてきたのは, 実際, あの土地で自動車を持たない暮らしはありえないからです. 

 

私はもはや在学中に自動車運転免許を取得するつもりはありませんが, その意味では地元にUターンするという選択肢は潰えたといってよいでしょう. 

 

今になって, 運転免許証が身分証明証として機能しているこの社会に異を唱えるほど私は未熟であるつもりはありませんが, これまで生活上のあらゆる取引において要求されてきた『本人確認書類』なるものが, 例外的で極めてマイナーな手段を除いて, 運転免許証に代替できるものを持たないという事実を受け入れるには, 相応の時間を要しました. 

 

午後に, ガス会社の人間がやってきて, ガス料金が安くなるから, 今すぐこの紙に必要事項を記入して寄越すよう私に要求しました. 

 

そもそも, 下宿のガスの契約は父の名義であり, 私は一切関与していませんでした. 

 

それを告げると, ガス会社の人間は心底驚いたような表情を浮かべ, やがて帰ってゆきました. 最初に, 私が二十歳を超えているかを確認してきたことを考えると, 彼は私が自分でガス料金を払っていないのをおかしなことだと思ったのかもしれません. 

 

私はひどく傷つきました. その年齢で親の援助を受けているなんて恥ずかしいことだとでも言わんばかりのガス会社の人間の表情を, 私はついに忘れることができませんでした. 

 

普段であれば, こうした訪問は無視するのですが, 今日は先日ネットで注文した荷物が届く日であったことが運の尽きでした. 

 

私の下宿のインターホンには, 画面が付いていません. すなわち, インターホンに応じるまで, 訪問者の情報を知ることができません. 

 

これまで, 同じような悲劇に私は何度も遭遇してきました. 

 

そんな折に, 下宿のインターホンが, 一斉に録画機能まで付属した画面付きのそれに取り替えられることがアナウンスされました. 来月には取り付け工事が行われ, 今日のような悲劇は回避できるようになります. 

 

食事のため下宿を出たところ, 玄関で掃除をしていた大家のお爺さんと偶然会って, 少しばかり話をしました. 

 

「インターホンの取り替え, とても嬉しい知らせでした」

 

私は頭を下げました. 

 

「インターホンにカメラがないことで, 君たちに大きな負担をかけてしまった. 本当に申し訳ないことをした」

 

お爺さんは腰をほとんど直角に曲げて, 首を垂れました. 

 

「非礼な業者がこのマンションに出入りしていたことは, 他の学生から聞いていたよ」

 

私の住む下宿は, 半分以上の部屋の住人が学生でした. 

 

私が苦い表情を浮かべているのを見て, お爺さんは私の肩に優しく手を置きました. 

 

「つらかっただろうね」

 

私は堪えきれず, 大人げなく, 声を漏らして泣きました. 

 

「私は弱い人間です. 誰かの援助なしに生きてゆくことができません」

 

「人間はみな弱いよ. きみも, そして私もそうさ. 年齢の問題ではないんだ」

 

私より遥かに長い時間を生きてきたお爺さんは, そのしがれた声で私を包み込みました. 

 

インターホンの取り替え工事は, 来月の頭になるそうです.