誠実な生活

実家の隣に葬儀屋がある

日記(3/11)

午前中, 9時過ぎごろにスマートフォンの緊急速報が鳴り, そういえば今日は3.11から11年だということに気が付きました. 

 

当時のことは, 今もよく覚えています. 当時小学四年生の私は, 五限目の図画工作の授業で, 図工室にいました. そのとき, 扉を開けて教頭が入ってきて, 

 

「大丈夫でしたか」

 

と尋ねてきました. 私の住んでいた地域は, ほとんど揺れを感じませんでした. そのため, 私は教頭が何に対して「大丈夫」と問うたのか, さっぱり分かりませんでした. 

 

私が事態を知ったのは, 下校して帰宅したとき, 父がテレビを観ていたからでした. その日は県立高校入試の合格発表であり, 私の兄がちょうど受験生だったため, 帰宅したときの第一報は, 兄の入試結果の可否についてだと思っていました. 

 

しかし, テレビ画面に映る惨状を目に, 兄の人生の転機となるべきその日は, もっと重大な日になってしまったのでした. 

 

なお, 兄は無事第一志望の県立高校に合格していました(ところで, 私立高校と公立高校のどちらが第一志望になるか, という点は, 地域性が出るようです. 私の生まれ育った地では, 私立高校は公立高校の滑り止め, という認識でした). 

 

私や私の親族は被災者にはなりませんでしたが, 少し変わった形で, 震災と関わることになりました. 

 

私の父は, 建築士, 測量士です. 父は震災の後, 定期的に家を空け, 東北の被災地を訪れていたようです. 同じようなことが, 熊本地震の際にもありました. 父の測量の仕事には, 私も何度か手伝いに駆り出されました. 

 

どうやら, 父は被災地で測量調査に関わっていたようです. 結局, 父が普段の生活に戻ったときには, 地震の発生からおよそ一年余りが過ぎていました. 

 

父の仕事を見て育った私は, 高校一年までは建築系の学科志望でした. 結局, 自身の興味を優先して理学部に志望を変更しましたが, 父は内心では私に建築の道に進み, そしてゆくゆくは家業を継いでほしいと思っていたらしく, そのことを知ったのは, 私が大学に進学して三度目の正月, 父と初めて酒を飲み交わした夜のことでした. 

 

今さらそんなことを言われて, しかしどうしようもない私と父は, 静かに, ひょっとするとあり得たかもしれない未来を思って, 弱い酒を飲み干しました.