誠実な生活

実家の隣に葬儀屋がある

ママチャリで片道150kmの帰省に挑戦した話

こんにちは、京都に住む理系大学生です。

先日、高校のクラス会があったことを同級生のInstagramで知りましたが、私は元気です。

 

はじめに

 

タイトルにもある通り、ママチャリで片道150kmの帰省に挑戦した話です。

ちなみにブログ初投稿です。よろしくお願いします。

 

文字数がかなり多くなってしまったので、一番最後にこの記事の要約があります。

私の言わんとしていることは大方伝わるでしょう。

 

帰省当日までの流れ

 全ての始まりは、春から始まった大学生活にもようやく慣れてきた、6月初頭のある日のことでした。

 

 

今年(2019年)のGWは10連休ということもあり、数少ない友人たちが次々と地元に向けて京都から脱出してゆくなか、私は初動が遅かったために、京都の街から逃げ遅れてしまいました。

まあ京都に取り残されたとしても、GW中に友人と会う予定もないので特に問題はなかったのですが。

逃げ遅れた根本的な理由については、当時のツイートを貼るに留めておきましょう。

 

 

 ともかく、GWという絶好の帰省の機会を逃してしまった私は、次に訪れる帰省の機会を見据えつつ、帰省のための交通費をコツコツ貯金しようと決心したのです。

 

そして紆余曲折あり、気付けば1ヶ月が経っていました。

この間にあった経済的事情についても、当時のツイートが全てを物語っています。

 

 

私は元々それほど金遣いの荒い方ではないのですが、独り暮らしを始めて私の中で何かが変わったのかもしれません。

 

そんな私に帰省という言葉を思い出させてくれたのが、友人の帰省でした。実家が京都のお隣、福井県である私の「地元が遠い」などという後付けされた理由は、彼の実家が関東圏だという事実により、説得力を完全に失ってしまいました。

私は自分を恥じました。

 

 ここで普通なら「来るべき帰省の日に備えて、ちゃんと交通費を貯めておこう」となるはずですが、私はどういうわけか「交通費がないなら、自転車で帰省すればいいじゃないか」という発想に至ってしまいました。

 

 

このときの精神状態が果たして正常であったのかについては今でも疑問が残りますが、ツイートしてしまった以上、後には引けません。

 

とりあえず私はGoogleマップを頼りました。

 

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Googleマップだと住所が表示されてしまうので手書きですが、京都の下宿から福井の実家まで、片道153km、徒歩での所要時間は33時間でした。

標高は最も高い地点で384m、最も低い地点で-2mでした。

 

この時点で、「自転車で帰省する」などという馬鹿げた考えは捨ててブラウザバックするべきだったのでしょう。

 

しかし、なまじ知識がないというのは恐ろしく、片道153kmの途方のなさも、所要時間33時間の恐ろしさも、私にとってはただの数字に過ぎなかったのです。

 

所要時間33時間という数字は、まだ再考の余地があります。これは徒歩での所要時間であり、自転車ならば、もっと短くなるはずです。

「徒歩 自転車 所要時間」で検索し、複数のサイトを参考にした結果、私は自転車での所要時間をおおよそ15時間と見積もりました。

私はこの数字を見て、「これならいけるんじゃないか」と思いましたが、それは大きな罠でした。

最初に33時間という数字を見てから、それが15時間にまで減れば、いかにも15時間が短く感じられますが、実際は15時間というのは自転車を運転する時間としてはかなり長い部類に入ります。

 

私は知らないうちに、Googleマップに一杯食わされていたのです。

それが知れたときには時すでに遅く、私は帰省の道中にいました。

 

金もない、知識もない、経験もない、ないないずくしでお前には一体何ならあるんだという話になりますが、当時の私にあったのは、これ以上ない恐怖心でした。

 

私には、諦めるという選択肢が確かに用意されていました。

どこか楽観していた裏にも、「この旅は無謀だ」という意識が常にありました。

知恵袋で「ママチャリ 限界」で調べたりしているうちに、153kmの旅路がいかにつらく、険しいものであるかも理解していきました。高校3年間の体力テストは全てE判定だった私に、この帰省を完遂するだけの力があるのでしょうか?

 

私にはいつでも、「やっぱりやめます」と言う準備があったように思います。

それでも、すんでのところで私を引き留めていたのは、もうひとりの私であるTwitterの存在でした。

 

 

帰省前日、私はこのようなツイートを残していました。

もっとも、このツイートを投稿したときには、まだ帰省の日程は未定だったのですが。

 

私は既に、このあまりにも無謀な挑戦を宣言してしまったのです。

「やっぱりやめます」の8文字を打ち込むのは、あまりにも容易なことでした。

しかし、もしその8文字をツイートすれば、Twitterのフォロワーたちは、私を許さないでしょう。

そうした強迫観念だけが、私を支配していたのです。

 

私は死の恐怖さえ感じていました。

 

そして今でも私のTwitterの下書きには、「やっぱりやめます」の8文字が、決して来ることのないツイートの瞬間を、茫漠としたインターネットの海を前に待ち続けているのです。

 

親には黙っていました。

言えば反対されることは目に見えていたからです。

 

あまりにも急な決定で、私は体力づくりの時間すら持てませんでした。

 

帰省当日 出発まで

 8月5日月曜日、朝起きてまず、私は天気予報を確認しました。

5日から6日にかけては、天候に関しては何の心配もいらない予報だったので、安心して帰省の準備に取り掛かりました。

 

冷蔵庫の中身を確認し、帰省中に賞味期限の切れそうな食材については、朝食と昼食で使い切り、最終的に残ったのは、未開封の味噌と水だけでした。

ちなみに、味噌については9月12日現在でも未開封のままです。まあいつかは具のない味噌汁となって、私の胃袋に収まるでしょう。

 

帰省の前に片づけておきたかったことが、もう一つありました。

 

 

私は害虫の亡き骸をティッシュで何重にも包み、ポリ袋に入れ口を固く結び、さらに大きな袋に入れ固く口を結び、それをマトリョーシカのように繰り返してゆくうちにキャベツ一玉ほどの大きさになったビニールの塊を指定のゴミ袋に入れ、他のゴミでその存在を覆いつくすようにしました。

私はこの害虫を、「私の生活領域から排除するだけでは許されない、貴様の代で根絶やしにする、子孫の一匹も残せると思うなよ」という強い意志を持って処分したのです。

 

私は害虫を処分したその手で、さらに新たな害虫捕獲装置、ゴキブリホ・イホイ(1973~)を組み立て、10畳の部屋に5個を設置しました。

 

おおよそ部屋の整理が終わった私は、いよいよ帰省の荷物の準備に取り掛かりました。

長い旅になる以上、荷物は限界まで軽量化を図らねばなりません。

 

まずは帰省の道中で必要不可欠なものとして、汗を拭くタオル、水筒、着替えのシャツ、財布を入れました。

 

本来なら娯楽用品はゼロにすべきでしたが、福井という「何もない」を具現化したような街において、娯楽は生命線に他なりません。

「退屈で死にそう」が冗談で済まされない街、それが福井なのです。

私はsurface pro 6をリュックに詰め込むに留めましたが、それさえも不十分だったのかもしれません。

 

携帯電話を2台用意し、1台は緊急時の連絡用に、もう1台は夜道を照らすライトとしての役割を託しました。

このとき私は、モバイルバッテリーを用意して、充電用のコードを用意し忘れるという大失態を犯していたのですが、ついに出発の瞬間までに気付くことはありませんでした。

 

全ての準備が終わった時、時刻は午後3時を回っていました。

日中に外出することの危険性を認識していた私は、静かに、日没を待ちました。

その目はじっと福井の方向をにらんでいたように思われましたが、実際に見ていたのは、大阪の方向でした。

 

私は未だに東西南北が分かりません。

 

いざ、出発

午後6時38分、私は下宿を出発しました。

 

まず最初に、私は大学へ向かいました。

私は普段は午後6時に5限目の授業が終わるとすぐに帰ってしまうので、この時間帯に大学に来るのは初めてでした。

 

購買でペットボトルのお茶とスポーツドリンクを手に入れ、余ったお金で菓子パンを1個買いました。

屋外のベンチに腰掛け、京都での最後の晩餐をゆっくりと味わっているうちに、辺りは少しずつ薄暗くなっていきます。

 

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少しばかり感傷に浸っていましたが、感傷に浸るほどの思い出が大学にはないことに気が付いたので、私はさっさと大学を後にしました。

 

日が沈んでも若干の熱気が残る京都の街並み(広義)を抜け、山科の入り組んだ地形で多少道に迷いつつ、私は気付けば京都府を出て、滋賀県に入っていました。

 

私はてっきり「ここまで京都府」「ここから滋賀県」といった看板が立っているものだと思っていたので、休憩に立ち止まったローソンの駐車場でGoogleマップの現在地を確認したときは少し驚くとともに、府県境を越える瞬間をTwitterで報告できなかったことを、残念に感じました。

 

そこから少し進むと、国道161号線の下をくぐった先に、分かれ道がありました。

 

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向かって左側は一般道でしたが、右側は街灯一つなく、一直線に石畳の坂が続いていました。

 地図を見たところ、左側では途中で道が途切れてしまうので、仕方なく右側の暗闇を進んでいきました。

 

自転車のライトの薄暗い光で先を照らしながら進んでゆくと、一度砂利の広場に出たのち、大人ひとりがやっと通れるくらいの幅の坂道へとつながっていました。

 

どう考えても、その道は自転車が通ることを想定されてはいませんでした。

 

そのとき私は、当たり前のことですが、「Googleマップが提案した道は徒歩を前提としていること」、「徒歩で通れる道が、必ずしも自転車で通れる道ではないこと」を、改めて諒解したのです。

 

道がどのように続いているのかも、目視では分かりませんでした。

妙に仰々しい、古びた鳥居のような門をくぐると、木々の葉が揺れる音に加え、得体のしれない野生動物の鳴き声が、辺り一面から聞こえてきました。

 

自転車のライトだけでは、ほんの1m先の地面を照らすので精一杯でした。

私は携帯電話のライトを付け、同時に音楽を流しながら、どうにかこの暗闇の恐怖を乗り越えようとしました。

 

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次第に道の幅はさらに狭くなり、胸の高さまで伸びた雑草のせいで、視界はさらに悪くなっていきます。

30分ほどかかってようやく上り坂が終わり、車道に出ることができました。

 

坂を下ると、大きな市街地に入っていました。ここから先、琵琶湖の西側を沿うように60kmほどはずっと平坦な道が続きます。

 

広大な琵琶湖の景色が見れたらよかったのですが、深夜なのでその姿は「周りの建物の明かりの影」という形でしか認識できません。

それでも、湖西線沿いを進めばまず道を間違うことはないし、市街地なのでコンビニで休憩することも容易いので、今回の旅路では最も楽な区間でした。

 

深夜帯は交通量も少なく、乗用車よりも大型トラックの方が多く走っている印象を受けました。

 

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出発から4時間半後の午後23時08分、初めてコンビニで休憩を取りました。

市街地からは少し外れていて、自転車で来ていたのは私だけでした。

 

この時点では疲れはほとんどなく、休憩もそこそこに、日付が変わる前に残り100kmを切ることを目標に(現時点で残り104km)、再び出発しました。

 

その後も調子よく進んでゆき、いよいよ琵琶湖から離れ、しばらく一緒に進んできた湖西線ともお別れしました。

 

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さらに進むと、初めて「福井」という文字を確認して、さらにやる気が出てきました。

意気揚々とTwitterで報告する程度の余裕までありました。

 

しかし、調子のよかったのはここまでで、この先には、滋賀県福井県の県境にまたがる、この旅路で最大の山越えが待ち構えているのでした。

 

余談ですが、この山越えの頂点はちょうど滋賀県福井県の県境に位置していました。すごい偶然ですね。

(よく考えたら、県境そのものが山地などの自然地形で区切られているので当たり前でしたね。偶然でもなんでもありませんでした。)

 

さらに、この山越えの道には自転車が安全に走行できる部分などほとんどなく、できるだけ端に寄って、車の走行の邪魔にならないように自転車を押しながら進んでゆくしかなかったのです。

 

その道は街灯もほとんどありませんでした。

 

昼時にはほとんど見ないような大型の輸送トラックが、けたたましい轟音で私の隣を走り抜けていきます。

私は後方から物音が近づいてくるのを感じるたびに、自転車から降り、ガードレールに身体を付けるようにして、トラックが通り過ぎるのを待ちました。

 

私ができる唯一の防衛策は、じっとトラックの運転席を見つめ、「私は端に寄っているので、どうか安心して通り過ぎてください」と念を送ることでした。

 

私はトラックが通り過ぎるたびに、底知れぬ恐怖を感じていましたが、それはトラックの運転手にとっても同じだったのでしょう。

山越えを通して、一度もクラクションを鳴らされることがなかったのは幸運でした。

 

そして、道路の端を歩くのも簡単ではありません。

雑草が生い茂った地面は歩くこと自体困難で、気を抜くと脇の側溝に足を滑らせてしまうような、歩行者にとってはこれ以上ない劣悪な環境でした。

 

幅の狭い道を暗闇の中歩くのも相当なものでしたが、それ以上に、広い道路を歩くちっぽけな自分というものも、その恐ろしさは計り知れないということを思い知りました。

 

これは例えるなら、映画ドラえもんのび太のパラレル西遊記」で、のび太のママが階段を上ってくるシーンの恐怖に匹敵しました。

(分からない人は当該シーンを参照してください。)

 

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中腹まで進んだところで、私はこんな暗闇の中を進むのは危険極まりないと判断し、夜が明けるのを気長に待つことにしました。

 

国道161号線の隅っこで、鉄パイプの上に腰掛け、日が昇るのを待つというのは、想像以上の苦行でした。

何か暇つぶしをしようとしても、携帯電話は緊急時に備えてバッテリーを温存しておかねばならなかった(ちなみに、このとき充電用のケーブルを忘れたことに気が付きました。)ので使えず、そもそも暇つぶしの道具自体を持ってきていなかったので、私は甚だ無為な時間を過ごす羽目になってしまいました。

 

眠気を感じていなかったわけではありませんが、大型輸送トラックの行き交う国道沿いで眠るなど、自殺行為にほかなりません。

 

それに30秒ごとに耳に鳴り響く轟音は、ある意味で眠気覚ましでもありました。

 

私は今回の帰省の旅について思いを巡らせました。

こうしてつらく、険しい旅路を乗り越えたとして、果たしてその先には何があるのでしょうか?

 

私は、私自身がこの帰省の旅を終えたときに何も得ることなく、ただ「終わった」という漠然とした思いしかないならば、これ以上先へ進むだけの気概を保つ自信がありませんでした。

 

そして最悪のシナリオは、道半ばで挑戦を諦めたうえに、なに一つ得られないまま終わっていまうことでした。

 

確かに今回の帰省は、本来鉄道や車を使って行く道のりを自転車、それもママチャリで挑むという無謀なものでしたが、それでも言ってしまえば単に隣県に向かうに過ぎないものでした。

 

地図上で見れば、はっきり言って大したことのない距離です。

それを、ほんの一日かけて自分の力でたどり着いたことで、いったいどれほど得るものがあるのでしょうか?

 

さらに言えば、私には自分の限界を知ってしまうことの怖さがありました。

私の限界が、「たった隣県までママチャリでたどり着く」ことだと知ってしまえば、きっと私は私を許せないでしょう。

それならば、まだ知らないほうが幸せだったのかもしれません。

 

もちろん、そんなことを考えていても実家にたどり着けるわけでもなく、私はただ進むしかなかったのですが。

 

独りでいると、必要のないことにまで考えを巡らせてしまうので健康的ではありません。

私はただ、実家にたどり着くことだけを考えようとしました。

 

少し進んでは休み、さらに少し進んでは休みを繰り返しているうちに、遂にこの旅路で最大の山越え、上り坂の頂点にたどり着いたとき、ほぼ同時に東の空が明るくなってきました。

 

下りは自転車をこぐ必要など全くなく、そのスピードはトラックと並走できるほどでした。

 

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山を下りても、しばらくは自然に囲まれた風景が広がっていました。

 

さらに進んでようやくコンビニを見つけ、朝食と水分の補給ができました。

 

時刻は午前5時を回ったところでした。そんな早朝に、山から自転車で降りてきた私が気になったのでしょう、初老の男性店員さんが、私に話しかけてきました。

「どこまで行くの?」

私は突然のことで驚き、ややあって「福井市まで行きます」と答えました。

 

彼は驚いた様子で、「若いってのはいいねえ、私も若い頃は…」などと自分語りを始めました。

カツ丼をレンジにかけている間、そうした他愛のない会話が二三、交わされましたが、山越えの疲れのせいか、私の記憶にはほとんど残っていません。

 

朝食をとれる場所を求めてしばらく進んでゆくと、山がちな風景も次第に変わり、街並みが見えてきました。

道路を走る車も、タクシーや自家用車が主流になってきました。

 

私はこの街を通るのはおそらく初めてでしたが、妙に懐かしく、気付けば地元福井市の街並みを重ねていました。

都市と呼べるほど高い建物も、洒落た店もなく、かといって田舎と呼ぶほど自然が残っているわけでもない、あまりにも中途半端で、少し時代遅れにも思える街並みが、そこには広がっていました。

 

人気はほとんどなく、たまに1台の車が、だだっ広い交差点を颯爽と走り抜けてゆくくらいでした。

 

街全体を山地が覆い、良くも悪くも古びた陰気な雰囲気を、街ごと閉じ込めているように感じました。

それは単に早朝のためだったのかもしれませんが、寂れゆく地方の街並みを、くっきりと象徴しているようでした。

 

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広場のベンチで、コンビニで買ったカツ丼を食べました。

 

視界には誰ひとりとして人の姿は移りませんでしたが、孤独は感じませんでした。

 

孤独というのは周りに人がいて初めて感じられるものであり、完全に独りでいる状況というのはむしろ、開放感さえ感じられました。

 

帰省の旅 2日目

異変を感じ始めたのは、敦賀市の街並みを走っているときでした。 

妙に自転車のペダルが、重く感じられたのです。

 

始めは、タイヤの空気が抜けてきたか、あるいはパンクしてしまったのではないかと思いました。

しかし、前輪、後輪ともにタイヤを指で押し込んでも空気が抜けている様子はありませんでした。

 

市街地は間違いなく平坦な道でしたが、私には、緩い坂道を上っているように感じられました。

座ったままではペダルがなかなか踏み込めず、だんだんと前傾姿勢に、やがて立ちこぎへと移行していきました。

 

私は、その異変が蓄積された疲労によるものだという考えに至るのに、しばらくの時間を要しました。

その理由は、ペダルが「急に」重くなったという点にありました。

疲労のせいなら、ペダルは「次第に」重くなるはずだと思ったからです。

 

実際のところ、それは地形の生み出した虚構でした。

 

「ペダルが重い」と感じるためには、ペダルを踏みこみ、自転車をこがなければなりません。これは当然のことです。

 

敦賀の市街地に入る前の山越え、その上り坂に差し掛かった時点で、私は既に自転車を降りて、歩いていました。

下り坂ではペダルを踏む必要などなく、むしろブレーキをかける必要さえありました。

 

つまり、私は山に差し掛かってから山を越え、坂を下って市街地に出てくるまでの実に4時間近く、自転車をこいでいなかったのです。

 

しかしながら、自転車をこがなくても、疲労は蓄積します。

山の坂道を上っている間に感じていた疲労は、「坂道だったから歩くのがつらかっただけだ」と言い訳ができました。

そして無意識に、身体に蓄積していた疲労をなかったことにしていたのです。

 

事実、私はペダルが「次第に」重くなっていくはずの過程において、全くペダルを踏んでいなかったのです。

 

結果として、疲労はゆっくりと、しかし確実に蓄積していたにもかかわらず、自転車のペダルを踏んだことで、あたかも突然に謎の異変が身体を襲ったように錯覚してしまったのです。

 

もしずっと平坦な道を進んでいれば、疲労の蓄積は最も分かりやすい形で認識できていたのでしょう。

これはあまりにも予想外の出来事でした。

 

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海沿いから離れ、本格的に山道に入っていった私を待ち構えていたのは、第二の地獄の山越えでした。

 

事前に帰省ルートの地形を確認していた私は、標高の高さだけを見て「県境の山越えが一番の難所だったから、この山越えはそれほどつらい道のりにはならないだろう」と考えていました。

 

しかし、緩急の付いた山道を超えるのは、単純な三角形型の山を越えるよりも肉体的、精神的疲労が蓄積されやすいことを知りました。

 

上り坂が終わり、風を切りながら気持ちよく坂を下ったかと思いきや、その先にはさらに上り坂が待ち構えていました。

こうした地形が、私の体力を猛スピードで奪っていったのです。

 

そしてより深刻だったのは、補給地点の少なさでした。

 

私は機会あるごとに、水分だけは切らさないように気を付けていたつもりでした。

常にペットボトル2本分以上の水分があることを目安に、コンビニでお茶とスポーツドリンクを補給しながら進んでいきました。

 

しかし、嶺北と嶺南(福井県の南北)を隔てる、あまりにも長く険しい峠を越えるまでの間に、水分を確保できるような場所は一か所とてありませんでした。

 

水分が完全に底をつくまで、さして時間はかかりませんでした。

かくて、進むも地獄、退くも地獄という状況が出来上がってしまったのです。

 

私の住む嶺北と南部の嶺南は、別の県だと言われるほどに文化も経済も別れていて、当の私も、嶺南とはほとんど接点のないまま暮らしてきました。

 

私はあまりにもこの断絶を甘く見ていたのかもしれません。

 

この土地の長い歴史において、常に南北の交流を妨げてきた峠の途方もない隔絶を、私は考え得る限り最悪の形を以てして、身をもって思い知ったのです。

 

そして私は、負けたのです。

 

私はこのとき、多少引き返してでも、最寄りの駅で自転車を置いて鉄道で帰るという選択肢を視野に入れていました。

自転車は駅の駐輪場にでも置いておけば、数日間は撤去される心配もないし、後日体力が回復してから回収しに戻れば問題ありません。

もし撤去されてしまったとしても、高校3年間、毎日乗り回してもはやボロボロの自転車だったので、失うことの精神的ダメージもそれほど大きくはありません。

 

しかし、ここで諦めてしまったら、これまでの努力はどうなってしまうのかという思いが私を邪魔し、判断を鈍らせてしまったのです。

 

私は何よりも、この挑戦が失敗に終わることを一番に恐れていました。

 

水分が底をついてからは、これまで経験したことのない喉の渇きと疲労が私を襲ってきました。

 

顔を上げることもままならず、身体全体で自転車を押しながら、灼熱のコンクリートに額を向けて、一歩ずつ進んでいきました。

 

そんな私の横をあまりにも無慈悲に、車は猛スピードで通り過ぎてゆきました。

 

体勢を崩して倒れれば、二度と立ち上がれないと感じました。

呼吸は小刻みに震え、口を大きく開け舌を出しながら、私は歩き続けました。

 

立ち止まれば、その先にあるのは死への恐怖でした。

一刻も早くこの山道を超え、休憩できる場所にたどり着かなければ、私は脱水症か熱中症か、もしくはその両方で命を落としてしまうだろうと思いました。

 

前を見ても、そこにあるのは絶望だけでした。

澄んだ空気が、どこまでも続く上り坂を、いやというほどに私の目に焼き付けていました。

 

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私はやがて、分かれ道にたどり着きました。

どちらの道を選べば実家にたどり着けるかは明白でしたが、私は迷いました。

 

実家へと続いているであろう左を選べば、いつ終わるか分からない坂道を進むことになり、帰省ルートから外れるであろう右を選べば、下り坂ですぐ近くの集落に降りて行けました。

 

私はこのときだけは、自分の命を優先する選択をしました。

この時点で、私はほとんど実家にたどり着くことを諦めていました。

 

全ては命あってのことだと理解していたのです。

 

 

後になって、私が力尽きたこの運命の分かれ道を、あとたったの280m進めば、最後の山越えも終わり、福井までずっと下り坂だったという事実を知りました。

 

もちろん、これは結果論です。

今、エアコンの設定温度27度の快適な室内でパソコンのキーボードを叩いている私の立場からすれば、280mというのは目と鼻の先に思えるかもしれません。

 

しかし、市街地を抜け、身体を休ませられるような場所もなく、水分は底をつき、日陰などどこにも見当たらず、ただ炎天下を、重たい自転車を押しながら歩いていた当時の私にとって、280mは今まで走ってきた120kmにも匹敵する距離に感じられたのです。

 

10%の勾配をひたすら上り続け、ふと顔を上げるとそこには、二手に分かれた道と看板があり、そこで私は間違いなく最善の選択をしたと今でも信じています。

 

帰省ルートから脱落

そこは、わずか0.03平方キロメートルの土地に20世帯約60人が生活している、小さな集落でした。

 

私は最初、自動販売機を探しました。

しかし、その集落には自動販売機はおろか、飲み水が売られていそうなお店すらありませんでした。

 

助けを求めようにも、一般の民家を訪ねる気にはなれませんでした。

田舎の集落というものが、いかに排他的であるかを、私は知っていたからです。

 

もしすぐそこにいる誰かに助けを求めれば、水くらいは貰えたのかもしれません。

しかし、田舎での18年間におよぶ生活は、私をすっかり疑い深くしていました。

 

集落の奥にようやく公民館を見つけたときには、自転車を押す体力さえも、ほとんど残ってはいませんでした。

 

公民館の扉を開けると、その先にはもう一枚ガラス扉があり、その中に人の姿を見つけました。

公民館の人間ならば、たとえよそ者であっても邪険にはしないだろうと思い、私は意を決して、扉を叩きました。

 

しかし、反応は一切ありませんでした。

 

気付かれなかったのだろうかと思い、気持ち強めに、もう一度扉を叩きました。

確かに中に人はいるのですが、やはり全く反応がありません。

 

まるで私の存在を誰も認識していないような、奇妙な感覚に襲われました。

 

彼らが私の存在に気付いたうえで私を無視しているのかどうかは分かりませんでした。

しかし、私はそれを非常に排他的な反応だと捉えました。

 

私はその瞬間、まるで他人事のように「これ以上は無駄か」と、妙に納得してしまったのです。

 

公民館を出て、側のコンクリートブロックに腰を下ろしました。

 

せっかく人のいる場所に降りてきたのに、涼むことも、水分を補給することもできないのであれば、何の意味もありませんでした。

 

そのときふと視線を横に移すと、そこには小さな用水路がありました。

用水路を流れる水は、見たところ澄んでいて、飲んでも問題はないように思われました。

 

勿論普段の生活において、用水路の水を飲むなどという選択は、まずあり得ません。

しかし、極限状態にあった私にとってその水は命綱そのものでした。

 

十分以上悩んだ末、結局は理性が勝ちました。

 

これ以上この集落に留まる意味はありませんでしたが、帰省ルートに戻る気力もありませんでした。

 

そしてようやく、私は最後の手段に出るに至ったのです。

 

死の間際に

 

私が父に電話を掛けたとき、携帯電話の電源は残り5%を切っていました。

 

平日ではありましたが、電話は繋がりました。

 

私は

 

・京都から福井までママチャリで帰省しようとしたこと

・体力的に限界なので迎えに来てほしいこと

 

を簡潔に伝えました。

 

父は呆れたように笑いながら、「そうか」とだけ答え、しばらくの間、沈黙していました。

 

父は涼しい場所で待機するように言いましたが、そんな場所はひとつたりともありませんでした。

しかし、涼むような場所はないと父に言ったところで、父がやってくるのが早くなるわけではないので、私は何も言いませんでした。

 

電話を切ってすぐに、私はさっきの分かれ道まで戻りました。

 

そしてGoogleマップで現在地の情報をスクショし、震える手で分かれ道の写真を撮り、父に送りました。

 

画像が送信完了される直前に、携帯電話の電源は切れました。

私はちゃんと画像が送信されたことを信じて、父を待つほかありませんでした。

 

このとき私が犯したミスについては、電源が切れた後で気が付きました。

 

私が父に送った写真は、京都→福井方向の向きで撮影されたものであり、父は福井→京都方向にやってくるのだから、送るべき写真は、反対側から撮影されなければならなかったのです。

 

しかし、私にはこれ以上どうすることもできず、強い日差しを浴びながら、もはや汗も出なくなった身体をどうにか支えつつ、待つしかありませんでした。

 

どれほど時間が経ったのかは分かりませんでした。

 

視界がぼやけ、意識も朦朧としていたそのとき、私は自身の下腹部に、ある違和感を覚えました。

 

私は勃起していたのです。

 

そして私の脳裏に、まるで天啓のように浮かんだものがありました。

曰く、「人間は生命の危険を感じたとき、本能的に子孫を残そうとして性欲が高まる」のだと。

 

私は自分の身に起こった突然の生理現象に驚き、全身の力が抜け、その場に膝から崩れ落ちました。

鉄板のように熱せられたアスファルトに肌を付いたにも関わらず、私はほとんど熱いと思いませんでした。

それどころか、生温かいとさえ感じました。

 

平時であれば笑い飛ばしているような迷信でも、このときだけは、生々しい実感でもって、私は信じるに至りました。

 

私は地面に向かって、言葉を吐き出しました。

「私も、ここまでか…」

その呟きは、誰の耳に届くことなく、発せられた私自身の耳にもたどり着くことなく、地面に落ちました。

 

勇者に倒された魔王のような真似事をする程度には、私にもまだ力が残っていたのかもしれないし、最後のあがきだったのかもしれません。

しかしそれは、間違いなく私の本心でした。

 

 死にたくないという気持ちは最後まで消えることはありませんでしたが、それ以上に、一種の諦めのような感情が、私の頭を支配してゆくのが分かりました。

 

何もかもうまくいかない人生ではあったけれど、最期は独りで死にたいという願いだけは叶えられるように思いました。

 

「小学校以来の友人に2年前借りた30円をまだ返していなかったなあ」などという、心底くだらない後悔が、頭に浮かびました。

身勝手ながら、あの30円は私への香典としてもらっておこうと思いました。

 

そして父には申し訳ないが、私の亡き骸を回収してもらおう、そう思い地面に手をついた瞬間、父は迎えに来ました。

 

一命を取り留めたのち

 父は早くても午後1時ごろにはなると言いました。

しかし、看板の真下で坂道を上ってくる父の車を見たとき、時刻はまだ午前11時過ぎでした。

 

父は脇に車を止め、私の元へやってきました。

そしてほとんど抱きかかえるような形で、私を助手席に乗り込ませました。

 

後部座席を倒してできたスペースに自転車をなんとか押し込もうとしましたが、ハンドルの部分が引っかかって、バックの扉がなかなか閉まりません。

 

仕方なく、車は扉を全開にしたまま走り出しました。

 

私はほとんど残っていない力を振り絞り、自転車が車から落ちないように、助手席から手を伸ばして自転車のタイヤを掴んでいました。

 

5分ほど走り、広い道に出たところで停車し、自転車を詰め直しました。

 

再び走り出すと、父は私にペットボトルのお茶を差し出しました。

私はそれを一口で飲み干してしまいました。それほどに、身体は水分を求めていました。

 

空になったペットボトルを眺めつつ、ようやく私は救われたのだという実感が、水分と共に私の身体を満たしていきました。

 

父は何も言わなかったし、私もあえて尋ねはしませんでしたが、父が仕事に穴を開けてまで、急いで私を迎えに来たのだということは、容易に理解できました。

 

実家へと向かう車内で、取引先の相手だろうか、電話口でひたすら謝罪を繰り返す父の横顔を、私は直視できませんでした。

 

運転中の通話を注意する気になどなれるはずもなく、助手席の窓から、だだっ広い田園風景を眺めつつ、私はただひたすらに、父への感謝と謝罪の言葉を心の中で唱えていたのです。

 

車内はエアコンの風の音だけが、静かに響いていました。

 

そしてもうひとつ、このときには気にも留めませんでしたが、

 

・父の車が現れたのは、京都→福井方向からだったこと

・父は間違いなく、福井→京都方向に向かって車を運転してきたこと

・私が待機していた場所は10km以上一本道の区間で、Uターンはできないこと

・所要時間から鑑みるに、迂回路を使った可能性は低いということ

・そもそも、父が迂回路を使う理由がないこと

 

は、私にひとつの疑問を与えました。

 

「父はいったい、どこからやってきたのか?」

 

父に尋ねる機会はいくらでもありましたが、なんとなく憚られているうちに京都に帰る日がやってきてしまいました。

 

次に帰省するのがいつになるのかは分かりませんが、そのときまで私は、何かしらの超自然的な作用によって父は進行方向を逆転させられていたのだと思うことにしました。

 

帰省終了後

翌日は、朝起きた瞬間から全身が筋肉痛で起き上がるのもままならない状況でした。

部屋で横になり、一日中YouTubeの動画を観て過ごしました。

 

起き上がって立ち歩くことができるようになったのはさらに翌日のことで、しかしその夕方には、筋肉痛はほとんど消えていました。

 

次第に痛みが引いてゆくなかで、120kmにも及ぶ死闘の唯一残った痕跡が消えてゆくのは、どこか寂しささえありました。

 

最後に、私は定期的に時刻とその時いる地点を記録しながら進んでいったので、グラフに表してみました。

 

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午後9時から翌日の午前1時半ごろまでは、琵琶湖沿いの平坦な道を走っていたので、比較的速く、一定のペースで進んでいったことがわかります。

そして午前1時半から午前4時半ごろまでのグラフの傾きが緩やかになっている時間は、山越えの上り坂区間だとわかります。

さらに午前6時過ぎから急に失速し、疲労が相当蓄積していたことがうかがえます。

最後のオレンジ色の部分は車での移動ですが、その傾きの激しさから、いかに車が優秀かがわかります。

 

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さらに帰省ルートの標高と比較すると、後半の2回の山越えにいかに時間がかかっているかがよくわかります。

最初で大した地形でもないのに時間がかかっているのは、道が入り組んでいて少し迷ってしまったからです。

今回の挑戦失敗の原因は、道が平坦な区間において、このペースを維持できると思い込んでしまったところにもあるのかもしれません。

 

おわりに

結局のところ、帰省の旅が終わって1ヶ月以上経ちますが、未だに私は何を得たのか、自分でもよくわかっていません。

もしかすると、何も得られなかったのかもしれません。

 

…何か格好のよい言葉を並べたかったのですが、何も思い浮かびません。

 

それではまたお会いましょう。

 

 

この記事の要約

映画ドラえもんのび太のパラレル西遊記」を観てください