東尋坊の入り口まで行って、そのまま帰ってきた話
こんにちは、京都に住む(現在は帰省中)理系大学生です。
卒業アルバムの中ではよく笑う人間でした。
はじめに
これは2020年3月21日にひっそりと行われた、小さな小さなひとり旅についてのブログ記事です。
そのため、2020年9月現在の"新しい生活様式"に反するような描写が複数登場します。
こうした描写の一部には、昨今の公衆衛生の意識の高まりにより、現在では差別を助長するような表現も含まれています。しかし、当時の筆者に差別を容認、助長する意図がなかったことは、言うまでもありません。
本ブログでは、こうした日常生活における価値観の変遷を認めつつ、あえて当時の状況をありのままに描写することを原則としました。
さて、既に5ヶ月の月日が過ぎた体験について文章を書くことにした経緯について、Twitterにも書きましたが(前書きとしてこれほど不快感のするフレーズもないと思いますが、ここでは目をつむることにします)最近はインプットばかりでアウトプットにあまり時間を割くことができていなかったので、文章を書くトレーニングの一環として記事を立ち上げたといったところです。
そして、このインプットばかりの生活というのは、先日実家に帰省してから、古本屋で買って積み上げたままの本を読みふける日々が続いていたということです。
積読というのは積む時間が長いほど、そして上に積み上げられたものが重たいほど、熟成されてよい読書体験を生み出します。
受験期に積んだまだ新しい積読から、まだ月の小遣いが500円だった小学生の頃に古本屋で何時間も迷いに迷って買った100円の文庫本まで、数百冊はくだらない積読の山が私の部屋にはそびえているわけですが……
そんな積読の山から私が選んだのは、米澤穂信『ボトルネック』でした。
この本も自身の数十倍の重さに長年耐え抜いてきた、よく熟された積読ではあるのですが、私もいつ買ったのかはよく覚えていません。
裏表紙には近所のBOOKOFFで買ったときの値札がまだ残っており、消費税が8%であることから、少なくとも2014年4月以降に買ったものと分かります。
当時の私は若く、『氷菓』をはじめとした「古典部」シリーズの存在を知りませんでした。
この作品の知名度については詳しくありませんが、新潮文庫の「高校生に読んでほしい50冊 2017」に載っていました。そういえば、「新潮文庫の100冊 2016」には同じく米澤穂信『リカーシブル』が紹介されているんですが、この2作品、両方のあらすじに「青春ミステリの金字塔」と書かれているのは、どうにも奇妙な感じがします。(正直、『ボトルネック』は"青春"かと言われると個人的には少し怪しい気がしますが……)
この作品を既に読んだことがあるという方はブログのタイトルを見てすぐに納得したと思いますが、裏表紙のあらすじにも書いてある通り、作中で東尋坊が登場するのです。
東尋坊までの道中について、私は(知っての通り)自転車を利用したのに対して、『ボトルネック』の作中では芦原温泉駅からバスを使っていたので、その部分では若干の相違点がありますが、私にこの小旅行を思い出させ、ブログ記事を書くひとつの動機付けを与えるには十分でした。(自転車で行くという選択がいかに異様であるかは、後述の通りです)
ただ、ここで注意しておきたいのは、私はこの作品を読んで半年前の小旅行を思い出しはしましたが、その情景が頭の中に浮かぶことはなかったということです。
なぜなら、タイトルにもある通り、私は東尋坊の入り口にまでやってきて、そしてそのまま帰ってきたのだから。
つまり、私は東尋坊までの道中を知っていて、しかし東尋坊の断崖から見える景色を知りません。
対して『ボトルネック』で東尋坊までやってきた主人公は、東尋坊までの道中を知らず、しかし東尋坊の景色を知っているのです。
この対照的な認識のずれはひどく滑稽ではありましたが、しかし私は笑うことができませんでした。
私はこの体験について、今日まで親しい友人にも、また家族にも話すことはありませんでした。それは、この体験がひどく悲劇的な事実を含んでいることを示しています。
Twitterに取りつかれている者は、得てして自らの行動を逐一ツイートするものです。それが旅行体験であれば、日常から離れた土地の写真と共にその感動を文字に起こしてタイムラインに放流するという行為は、多くの友人からいいねをもらい、自らの承認欲求を"健全に"満たす格好の機会となります。
しかし私は、ついぞこの体験についてツイートをすることがありませんでした。
1年前のママチャリ帰省のブログ記事に関しては、Twitterで実況をしていたこともあって、ブログのタイトルにもそれほど衝撃的なものはなかったでしょう。しかし、今回の記事に関しては、Twitterで一切語られていないので、興味を持った方もいると思います。
事実、このブログは、以下のふたつのツイートの間に起こった、とても……とても悲しい事件についての話なのです。
東尋坊 pic.twitter.com/b559MxdWb2
— ルサーク積民 (@1837oshionoran) March 21, 2020
これね pic.twitter.com/AlyTqp1Kdk
— ルサーク積民 (@1837oshionoran) March 21, 2020
このふたつのツイートの間には、本来ならより刺激的なツイートが存在するはずでした。断崖に立って身に受けた潮風の匂いや、岩を砕く白波の音、眼前に広がる日本海と空の境界線……そうした日常から隔絶した世界に自らの身を置いた感動が、言葉では足りないほどの心の揺れ動きが、それでも限られた文字数の中に拙いながらも集約されて、インターネットの海に放り込まれるはずだったのです。
しかし、そんなものは存在しなかった。
本当はこのことはブログなどの形で昇華しようと早い段階で思っていたのですが、私はこの屈辱的な事件について、長らく自分の中で気持ちの整理を付けることができていなかったのです。
そしておおよそ半年の月日を経て、ようやく私は気持ちの決着をつけるために、この文章を書いているというわけです。
その日のうちにでも、高ぶった感情のままに文章を書きなぐっていた方がよかったのかは、今でもよくわかっていません。記憶の輪郭も少しずつぼやけてゆき、冷静になった現在の視点から見えるものは、やはりぼんやりとして焦点が合うことはありません。
そもそも、生粋のインドア派である私がなぜこのようなアクティブな旅行計画を立てたのかについては、一考の価値があると考えています。
東尋坊は全国的にも有名な観光地であり、自殺の名所という名誉か不名誉か知れない愛称まで獲得していますが、地元である福井県の出身として、私も何度か訪れたことがありました。
中学生のときには地域の調べ学習で東尋坊についてまとめました。
その名の由来となった僧侶の話や、東尋坊の自殺防止のために、命をかけて東尋坊から飛び降りて無事生還したおじさんの話は、今でもよく覚えています。
しかし、私は東尋坊を訪れることよりも、その過程に意識を強く向けていたように思います。
突き抜けるような青空の下、だだっ広い田んぼの真ん中をひとり自転車で突き抜けてゆく感覚を、見知らぬ土地の見知らぬ道を、ただ方角だけを頼りに進んでゆく心地よさを……私は求めていました。
東尋坊というのは、そうした目に見えない魅力にひとつの輪郭を与えるための口実だったと言えるかもしれません。
旅行は、その過程だけでは成立しません。目的地が決められてはじめて過程という概念が生まれるのですが、私は過程のために、ちょうどいい距離にあるもっともらしい目的地を求めたに過ぎなかったというわけです。
福井口駅から東尋坊まで、寄り道を含めて片道おおよそ27kmです。早朝に出発して陽が沈むころに帰宅すると考えれば、自転車旅としてはまったくもって適当な距離だと感服せざるを得ません。
本当にいい場所に東尋坊という立派な観光名所が存在してくれて助かりました。
そして、ここでの問題は、かつての私は旅行の過程を楽しむことができるような人間ではなかったということです。
私の心の中に、こうした迷いのようなものが生じたのがいつかは、はっきりしています。
言わずと知れた、1年前のママチャリ帰省のときです。
あのとき私は、まさに生死の境をさまようような経験をして、二度とこんなことはごめんだと、確かに身に染みて感じていたはずです。
しかし、心のどこかで、それまで狭い地元と下宿のまわりしか知らなかった私の世界が確かに広がってゆく過程を、柄にもなく楽しんでいたのも事実でした。
それまでインドア派として家の中に引きこもってばかりの生活をしていた私には、そうした世界の広がりはいっそう衝撃的で、そして魅力的なものに感じられたのです。
今年の春休みにもママチャリ帰省を敢行したという事実は、私がそうした自転車で駆け抜ける快感に抗えなかったことの証左でもありました。(結局2度目の挑戦も失敗に終わってしまいましたが、それでもいいのです)
20年間をかけて形成された私の根幹をなすインドア主義が、まさかここにきて宗旨変えを迫られるとは、露ほどにも思いませんでした。
しかし、改めて幼少期の記憶をたどってみると、かつての私は、今の私が思っているほどにインドア派の人間ではなかったように感じます。小学校時代は家の中よりも外で遊ぶことを好んでいたことに加え、当時のアルバムを見返してみると、現在の私とはずいぶんと雰囲気が違うことに最近になって気が付きました。
私の写真はどれも外で遊びまわるものばかりで、室内で撮影されたものは、一枚も見当たらなかったのです。
どこかで私の価値観を大きく塗り替えるような出来事があって、その時点でもって、私はアウトドア派からインドア派に転向した?
でも、いったいどこで?
自転車との思い出
先に書いた通り、春休みは例によって愛用のママチャリと共に帰省することを選んだわけですが、私の唯一の誤算は、自転車が倒れてもなお、私は生きているということでした。
当時は私と自転車は一蓮托生だと信じていましたし、帰省の道中で自転車が倒れれば、私もそこでおしまいだと思い込んでいたのです。
しかし結果は、私にとってひどく侮辱的で、私はしばらくの間、自分自身を許すことができませんでした。私は既に動かなくなった自転車をマキノ駅に安置し、そのまま帰省しました。
自身の心に芽生えつつあった感覚のために自転車を酷使していたことには、私も気が付いていました。幾度となく部品を交換し、もはやテセウスの船のように自らの元の姿を忘れていながら、自転車はそれでも私の傍にいることを選んだのです。
どこで私と自転車の運命が別れたのかは今でもわかっていませんが、少なくとも事実として言えることは、自転車は死んで、私は生き残りました。いくら言葉を並べようが、それが全てだったのです。
そのため、今回のひとり小旅行にレンタサイクルを利用することは、私にとってひとつの越えてはならない裏切り行為でした。
そして最終的に、私は一線を越えました。
のちに、自転車は修理されて再び私の元に帰ってくることになりますが、このとき刻み込まれた罪の記憶は、重たい鎖となって今でも私と自転車を呪い殺すように固く……固く繋ぎとめているのです。
旅路について
当日の日程は、次の通りです。
07:15 福井口駅 到着
まずは実家の最寄り駅(正確にはレンタサイクルが利用できる最寄り駅なので、図らずして住所バレを回避できました)の福井口駅で自転車を借ります。駅員さんにレンタサイクルを利用したいとの旨を伝え、自転車の鍵をもらいます。
タイヤの空気が少し抜け気味であったり、サドルの高さが異常に低く変更不可であったりと、いささか不満が残る部分はありますが、1日乗り倒して100円という破格の料金設定なので、多少は我慢することにしました。
福井口駅から東尋坊までの25km以上の道のりをずっと進んでゆくというのも味気ないので、その道中でいくつか寄り道をすることにしました。
寄り道と言っても、これらはちょうど福井口駅から東尋坊に向かって北上していけば、そのほぼ直線上にあるようなものなので、この点でとても都合がよかったのです。
07:50 九頭竜川 通過
この辺りの子どもたちは、多かれ少なかれ、この川に人生を狂わされています。
私もそのうちのひとりでした。
観光名所でも子どもたちの遊び場でもないただの河川敷ですが、私は何かに惹きつけられるように自転車を降りて橋の下に潜りました。
この橋は、幼い頃は父の運転する車に乗ってよく渡ったものです。どこか日常とは離れた場所に連れていかれるようで、私は怖くて背を丸め、ただ車が橋を渡り終えるのを待ち続けていました。
そんなとき、運転席には静かに父が座っていて、それだけが私を安全な日常にとどめておいてくれるのでした。
08:30 エンゼルランドふくい 到着
次に訪れたのは、福井県民(ここでいう福井県民とは、暗に嶺北の民を指す場合と嶺南の民を指す場合があるので、注意しておく必要があります。ここでは嶺北の民の意です)の子どもなら誰もが通る道である、エンゼルランドふくいです。いわゆる児童科学館というものですが、この辺りの子どもたちの知的好奇心の源泉は、全てこの場所に求めることができます。
私も幼少の頃は、毎週土曜日は父とエンゼルランドに遊びに行くのが習慣になっていました。
春休み真っただ中にありながら、駐車場には車の姿はほとんどありません。車社会の未来を体現したようなこの街で、駐車場が空いているというのは、 ひどく終末的で恐ろしく感じられます。
平時であれば、敷地には無邪気な子どもたちが縦横無尽に駆けまわる姿を見ることができるのですが、この日に関しては随分と寂寥とした光景が広がっていました。
そうした孤独の中で私は、既に壊れてしまった幼少期の幸福な時間を想起させられずに済んで、どこかほっとしている自分を、色褪せた芝生の上に見ました。
敷地内が閑散としている理由は、言うまでもありません。
幼少期からここで父に買ってもらった本数として、通算で100本はくだらないアイスを食べました。
この120円のアイス一本にも、まだ髪の毛がふさふさだったころの父と芝生の上を駆けまわったり、アスレチックから滑り落ちでびしょびしょになったり、どれもかけがえのない思い出が浮かんでは消えていきます。
この夏に帰省したら、父の生え際もずいぶんと後退して、私はなんとも言えない気持になりました。(そういえば「後退」という言葉についてですが、「景気」と「生え際」くらいしか主語に持たないのでは、と思うことがあります)
時間の流れは残酷なもので、私と父の関係も、エンゼルランドに行かなくなってから変わってしまいました。
これ以上ここに留まっていると、過去の記憶に押しつぶされかねません。私は何枚か写真を撮って、そのまま立ち去りました。
10:05 あわら湯のまち駅 到着
東尋坊に行く前に、温泉に入って身体を休めようというのが私の計画でした。
バイトもしていない苦学生の私にとって無料というのはなかなか魅力的ですが、この温泉街の持続のためには、経済を回さないわけにもいきません。私は近場の入浴施設を訪れました。
朝から自転車を2時間以上漕いでいたので、温泉で洗い流すには適当な量の疲労と汗を抱えていました。ここから東尋坊までは坂道になるので、休息は十分に取っておかなければなりません。
東尋坊までは、しばらくは田んぼに囲まれながら進むことになります。平坦で方角もはっきりしているので、この区間に関しては澄んだ空気を楽しむ余裕までありました。もっとも、旅の疲労は一定のペースで溜まっていくわけではなく、あるところで突然身体を襲うものだということは、ママチャリ帰省のおかげでよく理解していました。
問題は、東尋坊まで残り4.5kmの地点で、突然に始まる坂道の存在でした。東尋坊がどういう場所かを理解していれば、坂道があることは明らかでした。
上り坂と下り坂が何度か繰り返され、そのたびに私は帰路が憂鬱で仕方がありませんでした。
一向に海の姿は見えませんでしたが、それでも海沿いに近づいているという感覚を糧に、私はペダルを踏みこみました。
東尋坊に着けば、この苦しみも浄化されるだろうと、その一点によって私は前に突き進むことができたのです。
12:50 東尋坊 到着
そしていよいよ、東尋坊の入り口までやってきました。
思えば、ここも運命の分かれ目だったのかもしれません。
門をくぐると、左右には広大な駐車場といくつかの古びた売店、そして正面には、東尋坊の断崖へと続く道がまっすぐに伸びていました。
様子がおかしい、そう感じたのは、門をくぐってすぐのことでした。
駐輪場はどこにある?
自転車乗りとして私は、事前に東尋坊に駐輪場があるかどうかは調べていました。しかし「東尋坊 駐輪場」で検索して出てくるのは駐車場の情報ばかりで、私が求めていた情報はひとつもありませんでした。
ここでの私の認識の甘さは、インターネット上には情報を得られなくても、実際に行ってみれば、自転車を停める場所のひとつくらいはあるだろう、などと楽観的に考えてしまったことでした。
確かに、地方の観光名所となると、インターネット上にない情報は山ほどあることは確かです。
しかし、こと自転車に関しては、あまりに根が深いために放置されてきた、ひどく奇妙な事情が存在していたのです。
この辺りには、有料駐車場などという概念は存在しません。なぜなら、どこに行っても無料の駐輪場が用意されているからです。
では、無料の駐輪場がなかったら、いったいどうなるのでしょう?
結果として、私は東尋坊の景色を見る資格を与えられることなく、その場を去りました。
それが答えだったのです。
私は駐車場の警備員に話しかけ、駐輪場の有無を尋ねました。
すると、それまでは活気にあふれた様子で車の誘導を行っていたその警備員は、まるで何か不都合なものを目にしたかのように顔を俯け、ただ東尋坊の断崖へと続く道を指さしました。
その道は明らかに自転車が通ることを許されないような雰囲気を放っており、私はためらいました。しかし、警備員は今すぐにでも私との意思の疎通を切り上げてしまいたいとでも言わんばかりに険しい表情を浮かべていたために、私は何も言うことができませんでした。
警備員の言うとおりに正面の道を進んでゆこうとしますが、どこにも駐輪場らしき場所は見当たりません。
このとき、私はさらに先へと駐輪場を求めて進んでゆくべきだったのかもしれません。
私を阻んだのは、周囲の観光客たちの視線でした。
彼らは自転車を押して歩く私に対して、ひどく軽蔑的なものを含んだ好奇の視線を向けていたのです。
まるで存在自体が罪であるかのように、彼らは私を見つめていました。
その場に居合わせた全員が、私をこの東尋坊から排除しようとしているように感じられました。
自転車に乗っていることが、これほどまで悪として捉えられた場所を、私は初めて経験したような気がしました。
実際は、私はこの20年間にわたって、常にそうした視線にさらされ続けていたのですが。
私はあまり他人からどう見られるかを気にしたことがありませんでした。
しかし、東尋坊の入り口で、たったひとり「えちぜん鉄道」とプリントされた、空気が抜け気味の自転車を押す自分の姿は……あまりにも孤独で、それでいてひどく屈辱的で……
そしてなによりも、そうした自身の存在に対して「恥ずかしい」という感情を抱いていたのです。
結果、私は5時間かけて東尋坊に来てまで、その断崖に足を踏み入れることなくその場をあとにしました。
今にして思えば、ずいぶんと馬鹿らしいことをしたものです。
駐車場にはバイクを止める場所があったし、そこに自転車を停めてもよいか尋ねるくらいの抵抗はできたはずでした。
なにより「えちぜん鉄道」の名前がプリントされた自転車は、地元においてある種の「信用」であり「身分証明」だったはずです。
さらに先に行けば、あの警備員の言うとおり、駐輪場が用意されていたのかもしれません。
そもそも、東尋坊の入り口にくるまでの起伏に富んだ道のりが、全くの無駄になってしまうことを考えれば、あそこで東尋坊の入り口の写真だけを取って立ち去ることが、どれほどのことか……
もしこのブログ記事に、東尋坊に駐輪場があったという旨のコメントが付いたとして、私は自分を保つことができるか自信がありません。
自転車についての話
以前、私はTwitterでおおよそ次のような趣旨のツイートをしました。
自転車差別
— ルサーク積民 (@1837oshionoran) August 8, 2019
自転車差別という言葉です。
あまり理解はされなかったようですが……
自転車差別などという言葉は(少なくとも私が調べた範囲では)存在しませんでしたが、車社会で生まれ育った人間であれば、その言葉の意味するところを、おぼろげながらも掴むことができるのではないかと思ったのです。
しかし、同調する者はほとんどいませんでした。
土地の広さゆえか、私の地元では基本的にどこにいっても商業施設や飲食店には自転車を駐輪する場所があって、わざわざ有料の駐輪場を探す者はいません。そもそも、私は地元を出るまで有料駐輪場を見たことがありませんでした。
この、有料駐輪場という概念の存在しない世界では、私たちは自らの足とほぼ同等の自由度で以て、自転車を駆けめぐらすことができます。
こうした事実だけを見れば、駐輪場は有料のものが標準で、自治体が自転車窃盗団などと揶揄される状況に悩まされる京都市と比べて、なんと自転車に優しい社会なのかと感動さえ覚えるかもしれません。
しかし、実情はまるっきり反対の、最も自転車に対して優しくない社会が、私の地元には形成されていたのです。
思えば、自転車に乗っているときに受ける好奇の視線は、全て乗用車に乗る人間から発せられるものでした。
いつだったか、「○○さんの家のお父さんが、この間8号線沿いを自転車で走っているのを見た」という話題が家族団らんの時間に出たとき、それが単なる事実報告ではなく、限りなく否定的で、そしてひどく軽蔑的な意味を持っていたと知れたとき、私はその瞬間においてはじめて、自らも車社会の歪んだ価値観の中にどっぷりと浸かりきっていたことに気が付いたのです。
言外の意味として含まれていたのは、おおよそ次のようなものでした。
「○○さんの家のお父さん、いい年して、この間8号線沿いを自転車で走っているのを見た、車の免許を持っていないのかしら」
つまるところ、車社会においては車以外を使う者は異端であり、排除されるべき存在だったのです。
私は京都に来て初めて、駐車場のないコンビニの存在を知りました。このとき「車はいったいどこに駐車するのだろう」と疑問に思ったものですが、コンビニそのものよりも広い駐車場が当たり前だった私にとって、駐車場のないコンビニは、理解の範疇を超えたものだったのです。
こうした意識の根幹にあったものが、車社会の歪んだ価値観であることに思い至ったのは、ごく最近のことです。
そう考えると、東尋坊で感じた尋常でない疎外感は、そうした自転車に対する排他的な価値観の最たるものだったのかもしれません。
しかし、東尋坊にいる人々は、ほとんどが県外からの観光客で、車社会にどっぷりと浸かった地元の人間ではありません。
そうした人々が、自転車に対してひどく厳しい視線を向けていたのには、何か理由があるのでしょうか?
もしかすると私は、本来はそうした価値観に染まっていないはずの人間が、この東尋坊の地に降り立った瞬間には、地元の排他的な価値観のなかに組み込まれていたことへの底知れぬ恐怖心に、そこから立ち去る決断を下したのかもしれません。
私の地元は、ずいぶんと奇妙なところです。
あらゆるところに無料の駐輪場があるのに、街中には自転車の利用を想定しない都市構造が存在しており、自転車の利用者は日々その矛盾に悩まされています。
地元にいる頃は、駐輪場と言えば当然無料駐輪場を意味したのが、今ではわざわざ無料の駐輪場と付け加えなくてはいけなくなったのは、ひどく屈辱的であり、しかしどこか心地よくもありました。
この心地よさはひょっとすると、そうした矛盾に溢れた土地からの解放によるものなのかもしれません。
ソースカツ丼の話
私はこの屈辱的な体験を、単にTwitterに放流することで清算してしまおうとは思いませんでした。その行為が、いかに人間として恥ずべきものであるかを、私は理解していたからです。
東尋坊の食事処で食事を取ろうと思っていた私は、結局何か食べ物を口に運ぶことなく自転車をこぎ、ひたすら南に進み続けました。
それまで屈辱的な感情によって覆い隠されていた空腹が私の前に姿を現したとき、時刻は14:30を過ぎた頃でした。
せっかく地元に帰省しているのだから、京都では食べられないものをと思い近くの飲食店を検索すると、ちょうどいい場所が見つかりました。
「ヨーロッパ軒」と聞いて、人は最初に何を思い浮かべるのでしょうか。飲食店と分かっても、そこで何が提供されるのかまでを正しく予想できる者はいないのではないかと思います。
ヨーロッパ軒は、福井県民にとってはおなじみの洋食屋で、ソースカツ丼の元祖ということらしいですが、実際のところはよくわかりません。
福井県においてヨーロッパ軒があまりにも強すぎたことは、私にとっていささか悲劇的な過去をもたらしたこともあって複雑な気持ちですが、味に関しては抜群の美味しさです。
少し遅めの昼食として、私はなんということもなく一枚のカツを口に運びました。
しかし、きついソースの匂いに鼻をやられた瞬間、まるで天啓のように私の頭に降りてきたものがありました。
なぜ私は過去のある時点で、アウトドア派からインドア派に転向することになったのか……
おおよそ半年ぶりに口にしたソースカツ丼によって、私の中で全てが繋がったのです。
地元ではカツ丼と言えば当然ソースカツ丼を意味したものですが、全国的にはそうではないと知ったのは、まだ物心つかない幼少の頃でした。
あるとき親戚の結婚式のために京都に行ったとき、夕食にあるお店でカツ丼を頼んだら、卵につつまれたわけのわからない丼を出されて、当時の私はその理不尽さに泣き叫んだことがありました。
私はただ、黒々としたソースに鼻がいたくなるようなカツ丼が食べたかっただけなのに、どうしてこんな黄色く気味の悪い食べ物を出されなければならないのかと、悔しくて店を飛び出したのです。
このとき私は、社会の厳しさを初めて知りました。私はこれからも、外の世界を知ることで、そうした理不尽に耐えねばならないのかと思うと、目の前に広がってゆく長い人生に、少しの希望を持つこともできませんでした。
結果的に、私は自分のよく知る世界に閉じこもるようになってしまいました。
これが、長らく続く私の引きこもり生活の始まりだったのです。
私がアウトドア派からインドア派に転向したのは、このカツ丼の裏切りによるものだったと、私は思い出しました。
月日は流れ、大学進学にあたって京都にやってきたとき、私は駐輪場について、やはり大きな衝撃を受けました。
この価値観の変化はひどく理不尽で、かつ屈辱的ではありましたが、カツ丼のときとは違って、不思議と怒りや悔しさといった感情は湧き起こってきませんでした。
無料の駐輪場を与えられ、しかし街中では自転車の存在を無視され、そして軽蔑されるような歪んだ地域に生まれ育った私にとって、それは自転車を自転車として対等に扱ってくれる社会との喜ぶべき邂逅でもあったのです。
道路には自転車レーンなるものが整備され(機能しているかはここでは議論しません)、いたるところに有料駐輪場が置かれ、そしてなにより、人々は自転車に乗る人に対して事実以上のものを見ていません。
普通のことかもしれませんが、それまで個人の属性ではなく「自転車に乗る人間」という視点でしか捉えられなかった世界の住人であった私には、到底考えられないことだったのです。
友人からはよく車の運転免許を取らないのかと聞かれますが、今のところ、たとえ将来的に不利な状況に置かれると分かってはいても、免許を取得する予定はありません。
それはどこかで、地元の車社会の一員に(名実ともに)組み込まれてしまうことへの、ささやかな反抗なのではないかと思っています。
私の両親はそうした車社会で生まれ育った身でありながら、私に免許を取らないのかと聞いてきたことは、今のところ一度もありません。
京都から福井まで、自転車で帰省してくる息子に対して、何かを悟っているのかもしれませんが、実際のところはどうなのでしょう?
ペーパードライバーであっても、私は無意識に自分が自転車を軽蔑する側の人間に立つことを忌避したのでしょうか。
少なくとも私は、自らの人生を自転車と共にまっとうできれば、それ以上の幸福もないと思っています。
カツ丼と私の世界
カツ丼に裏切られたあの日、私は自らを否定されたことへの悔しさから、自身の命を以てしてソースカツ丼への信義を示そうとしました。
衝動的に店を飛び出した私は、やるせない感情をどこにぶつけてよいかわからぬまま、夜の京都の街をひたすらに走り続けました。
人混みを抜けた先に、私は大きな河川敷に出ました。
そしてふと振り返ると、地元である福井の街とは比較にならないほど巨大で、煌々と輝く京都の繁華街が広がっていたのです。
そうなると、私はもうどうしようもなくなって、ただ泣き叫びながら、コンクリートの地面に、自らの頭を打ち続けました。
自分がこの世界で生きて存在していることが、あまりにも情けなく、そして到底許されるべきではないと本能的に感じたのです。
黄色がかった、ひどく醜いカツ丼が"カツ丼"の名を得ていることを知り、この世界に希望など見出せなかった私は、もうソースカツ丼に支配された福井の土地を踏むことなどできませんでした。
ただそこには絶望があり、生きる価値のない世界が広がっていったのです。
やがて父が追いかけてきて、私を地面から引き剥がし、そのまま強く抱きかかえました。
父は震えた声で、私を諭しました。
「誰も悪くはないんだ。ただ、世界が違った、それだけなんだ。でも、それが外の世界を知るということなんだ」
私はその言葉の意味するところも分からぬままに、血の混ざった涙の味を、ぼんやりとした頭で噛みしめていました。
おわりに
ただの小旅行記だったはずが、ずいぶんと遠いところまでやってきてしまいました。
それでも私は、このブログはタイトルの通り「東尋坊の入り口まで行って、そのまま帰ってきた話」でしかないと思っています。
それでは、またどこかで。