誠実な生活

実家の隣に葬儀屋がある

日記(3/6)

今日は, 朝から砂川の理論電磁気学を読み進めました. この本は一回生の夏ごろに買ったものですが, 初めて読んだときに, あまりの難しさに投げてしまった本でもあります. その後, もう少し易しい教科書を三冊ほど読み終えて, 再びこの本を開くに至ったときには, 既に三回生の冬を迎えていたのです. 

 

およそ二年ぶりに開いたこの本は, しかし当時の私が匙を投げてしまったほどの難しさを感じることはありませんでした. 行間が特筆して広いというわけでもなく, 確かに式変形の省略がないわけではありませんが, 丁寧に読み解いてゆけば, それほど混乱を招くものではないように感じました. 

 

ふと, そう感じてしまった自分におぞましさを覚えました. 

 

これは, 同じく一回生のときに挫折してしまった熱力学の教科書を, やはり三回生になって読み直したときにも感じたことでした. どうしてかつての自分は, これを難しいと感じたのだろう……と. 

 

私は一回生の頃, 教科書を読んでいて式変形に大きな飛躍を見出したとき, きまって「この著者はどうしてこんなに不親切なのだろう」と感じたものです. 続けて, 「もし自分だったら, 初学者が躓きやすいところはもっと丁寧に解説するのに……」とも思いました. 

 

しかし, 私もまた, かつて不親切だと感じた著者の側に立ちつつあるのだと思い至ったとき, 私はそれを「私も成長したな」と喜ぶわけにはいきませんでした. むしろ, かつての自分の苦しみに, 「難しい」という感情に寄り添うことができなくなってしまったことに, 言いようのない悲しさを覚えていたのです. 

 

もうすぐ四回生になる今でも, 教科書を読んでいて難しいなと感じることは日常茶飯事です. これが数年もすれば, 難しいとは思えなくなってしまうのでしょうか?そうなった日を思うと, 私は胸が締め付けられるようです.